ちくわ
絶望する者にかける言葉は無い。
取り返しがつかず、未来も無い、手の打ちようが無い、どうしようもない、絶望。
それはまるで闇だ。何も見えない、聞こえない、自分が立っているのか座っているのかすら定かでは無い、正真正銘の闇。
そこに放り出された者に、かけられる言葉は無い。
また次があるさ、などという慰めの言葉が何になるのだ。次など無い。あるはずが無い、くだらない。
あいつらは良いのだ、痛くも痒くも無いのだから。所詮は他人事。勝手な話だ、落ち込むななどと。
途方に暮れるとはこういう事なのだろう。
私は、僅かばかりの気力を振り絞って、歩み、家路に着いていた。
薄闇にどんよりとしたアスファルトが、延々と続いている。足が、沈んで行きそうだ。街路樹は、葉もまばらに落ちきってしまいそうで、余計に寒々しい。
クソみたいな風景だな。クソみたいな街め。心の中で悪態をつき続け、わざとらしく靴の踵を擦りながら、今朝来た道を戻っていく。
最寄りの駅から歩いて、家に着くまでに小さな繁華街を通る。繁華街と言っても、居酒屋とスナックが十数軒、軒を連ねているだけで、全然大層なものではない。
このまま帰ったところで、郵便受けに入った請求書の海に溺れて溺死するのがオチだ。取りあえず、溺れるなら酒の方がまだマシだと思い、フラフラと吸い込まれるように、ぼんやりと光るネオンの海に潜っていく。
一軒の、小料理屋が目を引いた。とても、スナックなんて気分じゃない。今のメンタルにはちょうどいい、どうせやけ酒だ。一人でチビチビとやろうじゃないか。
紫の生地に小料理紫乃と書かれた暖簾を押して店に入る。やけに良い香りがする。これはおでんだろうか。
「いらっしゃい」
と、幾分か無愛想にも聞こえる年老いた婆さんの声が出迎える。私は人差し指を一本立てて、しわしわの婆さんに会釈し、カウンターに腰かけた。
「はいどうぞ」
おしぼりが手渡され、くしゃくしゃと適当に揉んで、手に着いた脂をそれに移す。
「何にされますか?」
「熱燗を下さい」
返事もなく、婆さんが引っ込み、日本酒を瓶から徳利に移して鍋に入れ、火にかけた。
熱燗を待つ間、私は店内を見回した。客は私以外に一人、よぼよぼの爺さんが私の席から3つ離れたカウンターの一番奥で、おでんを突きながら瓶ビールを飲んでいる。他に4人がけのテーブルが2つあるが、そこは無人である。
「あんた、若いの」
爺さんが、少し乱暴に手招きしている。
「何でしょう?」
私が少し身を乗り出してたずねると、爺さんが突ついていたおでんの皿をこちらに寄越した。
「食べなさい、うまいから」
爺さんはご丁寧に自分の箸を大根に刺して、転げないように配慮した上で、私の前におでんの皿を押しやる。
「ああ、お構いなく、自分で頼みますので」
私は箸が刺さった大根を筆頭に、手持ち無沙汰で爺さんが突きまくって穴だらけになった卵やはんぺんが乗った皿を、強制送還した。
「若いのに、食べないのかね?ひもじそうに見えるのう」
随分勝手な事を言うもんだ。ひもじいのは強ち間違いでは無いが。愛想笑いで誤魔化しながら、私はなんだか具合が悪くなって、一杯ひっかけたらもう帰ろう。と心に決めた。
「あんた、ここの人かね?見かけないけど、死にそうな顔をしておる」
爺さんがこちらを心配そうに見つめている、おでんを断ったのがよっぽど意外だったらしい。ひもじそうなのに、食べないと言うことは、よっぽど不健康に映ったのだろう。
「いえ、あ、いやまあ、ここの近くに住んでおりまして。ここに来るのは初めてです。顔が死にそうなのはまあちょっと色々とありましたので」
頭をボリボリ掻きながら答える。婆さんが熱燗の入った徳利をおしぼりで包んで私の前に置のを見て、爺さんが、おでんとビール瓶を持って、よろよろと、こちらへ近づいてくる。隣の席に座った。
再び爺さんのおでんが私の目の前に戻ってきた。どうやら、私はこいつを口にする運命らしい。否、絶対口にするものか。
すると、婆さんがカウンター越しに、大根や卵、はんぺん、ちくわ、牛すじ、次から次へと爺さんの皿に盛っていく。
「酒を頼んだら、おでんが5つ来るから。お通しみたいなもんじゃ」
爺さんが何故か誇らしげに言う。常連だから、わしは知ってるんじゃよ。と言わんばかりの顔だ。私は穴だらけのおでんときれいなおでんが混在した皿をまじまじと見つめて、何故か身動きが取れずにいた。
「まあ、飲みなさい」
爺さんがお猪口に熱燗を注いでくれた。乾杯をして、飲む。ぬるい。
「まあ、何があったかは知らねえけども。あんたは若いから、大丈夫じゃよ」
その言葉に私は少しムッとして、うつむいた。何も知らないくせに、随分と勝手な事を言うもんだ。誰も見ていなかったら、ギリギリ下唇を噛んでいたところだ。
すると、爺さんがおもむろに箸を伸ばして、目の前の皿から、きれいな方の大根を取り上げ、ひとかじりして、皿に戻した。
ああっ、と声が上がりそうになった。それ、私の大根です。
私は、きれいに歯型がついた大根を見下ろして、悲嘆に暮れた。
「まあ、わしがあんたくらいの頃は、戦後の何もない焼け野原に放り出されて、本当に何もなくて、毎日地獄じゃった。食べるものも無くて、毎日、そこらへんの草を食うておった。なあ、しーちゃん」
爺さんが同意を求めたしーちゃんが、カウンターの向こうで神妙な面持ちを浮かべ、頷く。しーちゃんは、しわしわのしーちゃんか、神妙のしーちゃんか。死にかけの…
「まあ、今はこうやって、好きな時に、酒が飲めて、おでんが食える。それだけでありがたいと、思わんといかん」
そう言って爺さんがまた、箸を伸ばして、皿の上空をユラユラと旋回し、ターゲットを定めた。はんぺんだ。しかも、きれいな方の、私のはんぺん。
私はすかさず箸を伸ばし、自分のはんぺんを全速力で刺しに行く。
取った。へへ、ざまあみろ、私の勝ちだ。
私ははんぺんを口に運び、一口かじる。
うまい、ダシが沁みていて、濃厚な旨味だ。
そのままふたかじり、みかじりで平らげる。
「今の世の中は便利になりすぎておる。あんたの年頃じゃ、何もかも、生まれてくる頃には全部揃っておったじゃろ。だから、へんな不満や絶望が訪れるんじゃ」
私がはんぺんをかじるのに夢中になっている間に、爺さんはいつのまにか牛スジの串を手にしていた。もちろん、マイ牛スジである。
しまった、はんぺんは、ブラフだったか。
そういえば、この爺さん、自分のはんぺんも突き回しているだけで食べてない。
つまり、はんぺんはあまり好きじゃないのだ。
呆気にとられている私を尻目に、爺さんが器用に、串を横に持ち、スルスルと牛スジを口に入れる。
こんのクソジジイが。それは私の牛スジぞ。
卵、卵だけは何としても死守。死守死守死守。
私は再び超速で卵を捕まえに行く。挟むのは、取りこぼすリスクがある。この鉄火場でそんなタイムロスは是が非でも避けたいところ。ここは、箸でぶっ刺した方が無難だろう。
「あ」
私が声を漏らしたと同時に、刺し損ねた、予想以上に弾力に富んだ卵が、皿から踊りでる。
二度、ぼいんぼいんとバウンドしたそれを、ジジイが左手で捕まえる。
ナイスキャッチ、爺さん。
そして、爺さんは美しいほど無傷のマイ卵を、口に運び、かじり、そしてまた皿に戻した。
「あんたらは、恵まれているが、少しばかり不幸かもしれんの。わしらの頃は、何もなくて、世界が今よりもずいぶんと広かった。それこそ、焼け野原じゃ。周りに何もないから、地平線が見えたんじゃ。そこから朝日が昇るのも見た。じゃが、あんたらはどうじゃ。色々なものに囲まれて、窮屈そうじゃ。世界は、本当に狭くなったと思うよ」
「それについては、同感です」
話しながら、箸でジジイとちくわを引っ張り合う。このジジイ、人のおでんを一体なんだと思っているんだ。これは、私のちくわだぞ、決してあんたのじゃあない。そもそも、なんでこいつはさっきまで食べもせず、自分のおでん突き回していたくせに、人のおでんを取ろうとするのだ。
全くもって意味がわからない。怖い。
「あんたが、どんな世界で生きとるかわしゃ知らんが、若いっちゅうことはのう、つまり、それだけで希望なんじゃ。ワシみたいな老いぼれは後は死ぬだけじゃからのう。あんたにはまだ未来がある、機会があるんじゃ。また今度この店に来ればいいじゃろう。わしゃ明日死ぬかもしれんのじゃ。だからちくわ寄越せ」
「いやだ、絶対に渡すものか。明日死ぬかもしれないのはこちとら同じ事よ」
「むむ、若いのに強情なヤツめ。年上の言う事は聞くもんじゃ、さもなければ、このちくわみたいに芯のない、人間に成り果てるぞ」
「うまいこと言ったつもりか爺さん、そもそもこのちくわはこっちのものだ。勝手に横から奪う権利はあなたには無いはずだ」
「このちくわが、あんたのちくわってどうしてわかる?これはワシの皿じゃぞ。ワシの皿に入っておったから、ワシのちくわじゃ」
ジジイと二人、ちくわを箸で引っ張りあっていると、カウンターの向こうから新しいちくわが一本、皿の上にポトリと置かれる。
「サービスよ」
しーちゃんが、優しい声でつぶやく。
ちくわを引っ張りあったまま、二人で、ちくわを見つめ、しーちゃんを見、顔を見合わせて、同時にため息をつく。
なんだかどっと疲れた。
ちくわを離し、お猪口に酒を注いで、グイと飲み干す。
「若いのは元気があって良いのう」
「爺さんの元気には負けますよ」
そう言ってなんだか笑っている自分に、ふと、気がついた。
その後、他愛のない世間話を爺さんと交わし、徳利を3本ほど空けてから、会計を済ませた。
「また来てちょうだいね」
しーちゃんが初めて、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
もしかしたら、初めからしわくちゃだったから、最初から笑っていたのかもしれない。
幸せの、しーちゃん。
「まあ、若いの、あんたまた飲もう。お互い生きていればの」
そう言ってジジイがカカカと笑った。
何となく、握手がしたくなり、ジジイの手を取り御礼を言った。ありがとうクソジジイ。また、来るよ、絶対。
私は再び紫色の暖簾を押して繁華街の通りに出た。ネオンの海がキラキラと、珊瑚のように煌めいていた。